こちらのページでは収蔵作品の中から「肉筆浮世絵」の作品をご紹介いたします。
細長い画面にそれぞれ日、龍、月を描き、日を朱、月と龍を墨彩で表現した作品である。霞に映えて真紅に耀き昇る太陽、暗雲に見え隠れする龍、おぼろげなる三日月と左幅から右幅に流れていく画面展開。加えて幅の狭い画面ながら三幅対という形式を用いたことで、各幅の間に生まれる空間の広がりが、見る者を一枚の画面では構成することのできない、無限の宇宙世界へと誘い込む。ここには北斎ならではの見事に構築された世界が描かれている。「画狂人北斎」の落款に「辰政」(朱文円印)がそれぞれに捺されている。
満開に咲く桜樹のもと、縁台に座して足元を見つめる振袖姿の美人。蹴った弾みか、脛や裸足がのぞいている。振袖姿から、この美人は遊女になる前の新造かと思われる。白地に花文を散らした衣装、両側に流した茶の帯、蹴出しの赤なども美しく、爽やかな春に物思う、色っぽい姿が描かれている。
新吉原の大門をくぐると、まず右側に七軒茶屋といわれる引手茶屋が軒を連ねる。図では小田原屋、桐屋の情景が描かれている。仲の町というのは、大門から水道尻といわれる廓の奥まで通じている仲の町通りのことである。この仲の町に毎年二月下旬ごろになると根付きのままの桜が移植された。開花の時期を三月一日と三日の紋日にあわせて客寄せの催しとしたものだという。天保年代の費用で百五十両掛かったといわれる。
布袋和尚の名で親しまれる布袋は、中国四明山の僧で、腹が大きく、常に日常品一切が入った大きな袋と杖とを持っている。そして、いつも小児と遊び戯れ、飽きれば昏々と眠ったという。その円満な相によって、江戸時代に七福神の一神に数えられ、古くから好画題として描かれている。本図も戯画に近い作風で、布袋の親しみ深さがよく表現されている。
紅葉の下で官女が欄干にもたれ、くつろぐ姿が描かれている。高貴な女性であるにも関わらず、裾から無造作に足が覗き、生々しい色香が漂う。それでいて下品にはならないところが真龍の手腕であろう。京都の絵師の作品には女官を描いた作品が数多くある。女官は古都京都らしい画題としてもてはやされたのであろう。
雪の中を相合傘で行く二人の芸者を描いているが、その顔立ちは師 清長の作風というよりも、当時浮世絵界で勢力を伸ばしつつあった歌川派の画法に近い作風となっている。地味な小袖を重ね着した芸者の下着の派手な色あいが、図を華やかなものとしている。当時の実際の風俗を捉えたものであろうが、二人の対照的な配色は二代清満の工夫と考えられる。
芸者か客を案内する仲居であろうか。雪の降る中、袖を傘がわりに「梅」の字が入った提灯で地面を照らしながら歩むポーズが艶かしい。筆力、彩色など十分技量を持った絵師の作品である。
追い羽根を楽しむ人々。追い羽根というのは、新春の神詣での際、厄除け祈願に羽根突きを行ったことに始まるとされる。それが正月の遊びとして行われるようになった。本図も遊びとしての追い羽根の様子である。
遊女の打掛には、舞楽で用いられる笙や鳥兜、大太鼓などの模様、赤い帯には鯉の模様が入っている。遊女の前に置かれた机に、短冊と扇面、さらに筆と硯が並んでいるところを見ると、これから和歌でもしたためようとしているのだろう。ちょうどそこにお付きの禿が来て、遊女に何か伝言している。馴染みの客が突然訪問してきたのであろうか。
古来牡丹は富貴の異名とされ、百花の王ともいわれる。そして獅子、松、薔薇、竹、蘭石、猫等と組み合わせた絵画が中国や日本で古くから描かれている。本図もこうした伝統を配慮した図柄の作品で、牡丹の葉に濃淡を染め分けた技法も、近代的な友禅染の表現法だといえる。
遊女は二枚櫛に笄、簪と豪華に髪を飾ってはいるが、帯が簡略的なので、座敷へ出る前の私的な時間を過ごしているものと思われる。禿の手前には紙とハサミ、作りかけの紙縒が置かれていて、禿は、紙縒を結び合わせて大きな輪にしたものを遊女に見せている。用途は不明だが画題に「遊戯」とあることから、これらは何らかの遊びで使われたものと推測できる。
豫譲は中国春秋時代の人で、晋に生まれ、六卿の筆頭・智瑤に仕えた。忠誠を尽くし、智瑤にもその才能を認められ国士として厚遇されたが、紀元前453年、趙無恤との戦に敗れて主君が憤死すると、その仇を討つべく山中に伏して好機を待ったという。しかし計らいは失敗し、囚われの身となった豫譲は最後の願いとして、譲り受けた趙無恤の衣服を斬りつけ、無念を果たしたのち自刃した(司馬遷『史記「』刺客伝」)。
本図はこの逸話と設定は異なり、主君の仇を討ち、飛び来る矢に自ら胸を開く豫譲が描かれている。豫譲の表情がなんとも印象的である。
紋から二代目の中村七三郎であることがわかる。二世中村七三郎は正徳元年(1711)に二代目を襲名し、江戸中村座で初舞台を踏んだ。若衆方から立役となり、和事と所作事を得意とし、「和実の達人」と称された。『菅原伝授手習鑑』の菅丞相などが当たり役。
華やかな衣装をまとい、二重瞼の目元の涼しい容貌の役者姿に描かれている。画幅上には「楽はいなことのいとつら物よ」で始まる画賛が記されている。
桜花咲く春、遊女道中の花魁を描いた作品である。遊女道中とは、遊女が遊郭で一定の日に盛装して廓内を練り歩くこと。上位の遊女(花魁)にしか出来なかった。花魁道中ともいう。花魁は何枚も重ね着して、龍をあしらった豪華な帯を前結びにしている。江戸・吉原の遊女は外八文字歩き、上方・島原の遊女は内八文字歩きをしたという。
桜の花の下、円窓の中に三人の女性を描く。右は平安時代の歌人である小野小町。中央は中国・唐時代の、玄宗皇帝の后である楊貴妃。左は吉原遊廓の遊女で、簪に扇と二枚重ねの桜の花びら飾りがあることから、江戸町一丁目の妓楼「扇屋」の遊女・花扇と推測される。時代と国を越えて、三人の絶世の美女たちが揃い踏みといったところである。
桜花の咲き乱れる下で緋毛氈を敷き、花見の宴を楽しむ人々。今も変わらぬ春行楽の一駒だが、こうした庶民風俗が描かれるようになるのは、近世になってからのことである。
江戸時代、徳川幕府は庶民の贅沢を取り締まるために度々禁止令を発した。緋毛氈の周りに幕が張り巡らされているのは、陣地取りの意味もあったが、幕の内は俗世間の法令も効力のない空間と見なされ、どんな贅沢な衣裳も遊興も許される決まりだったからだ。
今から客の待つ屋根舟に乗り込むところだろうか、着物の褄を取って桟橋を歩む芸妓が、雁の声に足を止め、空を仰ぐといった情景である。中天には満月が懸かり、その前を雁の群れが横切っている。
名所絵で知られる広重だが、肉筆画では晩年に美人画の作例も少なからず見られるようになる。派手さはないが名所絵と同様、情趣豊かで品の良い作風が特徴である。
碓氷峠より浅間山を見た光景であろう。右にある山は鼻曲山である。浅間山は長野・群馬両県にそびえる標高2560mの活火山である。天武14(685)年に噴火の記録があり、以後30数回の活動が記録されている。とくに天明3(1783)年の大噴火は有名である。浮世絵では中仙道の軽井沢、沓掛、追分側から見た景観が風景画に描かれる場合が多い。
琴高仙人を遊女に見立てて描いた作品。琴高仙人は中国戦国時代の趙の人で、鼓や琴を能くし、宋の康王に仕える臣であった。仙術を行い、冀州と涿郡の地を浮遊すること二百余年。のち碭水(江蘇省碭山の南)に潜って龍の子を取ってくると約束し、約束の当日、弟子たちが待つ所に鯉に乗って現われたとされる。(劉向著『列仙伝』より)
琴高仙人は画題としても知られ、浮世絵では本図のように、文を読む遊女の見立絵が定型化している。
精霊祭とは精霊会、盂蘭盆会、または単にお盆ともいわれ、江戸時代には旧暦7月15日に行われた先祖祀りの行事である。今でこそお盆は夏の行事のように思われるが、季節としては秋にあたり、縁側に置かれた団扇にも、秋の七草の一つ撫子が描かれている。女性が手に持つのはお盆に飾る切子灯籠で、行事を華やかに彩るものである。灯籠上部に描かれた男女は盆踊りに興じる姿を写している。
雪鼎の肉筆画としては最初期の作と思われる。当時流行の髪型「鴎髱」をした、肉感的な女性がこの頃の特徴で、大きく広げた胸元から覗く白い肌には、色香が漂っている。
胸に抱く立雛も独立して日本画に多く描かれる画題であり、雪鼎自身も「立雛図」を手がけている。詳細に描かれた人物とは対照的に、簡略な筆致で描かれた桃の木が画面を引き締めている。
遊女の視線をたどると3匹の蝶が見え、蝶と美人といえば「楚蓮香」が思い浮かぶ。唐の玄宗皇帝の御代に実在したといわれる美姫で、外出時にはその香に惹かれ蝶が慕い従ったという。唐美人として描かれる画題であるが、雪鼎はこれを日本の当世遊女として描いた。
芸妓や舞妓を似顔で描くことに優れていた井特であるが、この図のように特定の人物に依拠しない作品もある。二人の子供の表情には蜻蛉への好奇心があふれ、子守の少女には祇園の花街の女性たちとは異なる、あどけなさが全面に漂っている。
桜の木の下、花吹雪を左手でよけながらたたずむ女性は、毛先を上に上げた「先稚児髷」といわれる髪型をしている。華やかな笄と着物から芸妓と思われる。黒目がちの目と笹色紅の唇などが上龍の描く美人の特徴で、着物や帯の柄に草花を大胆に配し、太く荒い筆致で描いたものが多い。また、着物や帯を緩やかに着付けることから漂う上品な色香も、上龍の持ち味である。
懐紙を口にくわえた女性が、帯を解きながら、窓を空けて外の雪を眺めている。竹の葉にこんもりと雪が降り積もっているところを見ると、かなり長い間降り続けているのだろう。女性の髪の生え際がほつれ、上品な色気を漂わせている。
廬朝は千石取りの旗本であったためか、その肉筆画には発色の良い高品質な絵具が用いられていることが多い。描写も緻密で、女性の脇の紅梅図屏風や足元に置かれている茶器などの調度品も、上品に描写されている。
休息をとる旅姿の三人の女性を描く。中央、煙管を持つ女性は眉を剃りお歯黒をし、丸髷を結う既婚者の風俗である。座した女性はお歯黒に丸髷を結い、既婚のようだが眉は残している。笠をかぶり道中合羽を着る女性はお歯黒をしておらず、一行のなかでは最も年若いようだ。
喜多川歌麿の門人と推定される藤麿は、人体描写が自然で、指や毛筋といった細部も的確かつ丁寧に描き込んでおり、安定した画技を有していたことがうかがえる。
風が吹いているのだろう、芸者の帯や着物の裾がたなびいている。潰し島田に長い笄を挿した髪型、懐には懐紙に包んだ鏡入れと、これを止める華鎖が見えるが、これらは芸者の風俗である。
縞に琴柱を散らした小袖に、龍・雲・縞を配した帯を結ぶ着こなしも粋。着物や帯は青を基調とした落ち着いた雰囲気のものだが、襟や袖、裾などからからのぞく襦袢の赤、少しほつれた髪の毛によって色香が添えられている。また、着物は色の濃淡によって凹凸や動きが表現され、衣紋線に沿って金泥が引かれるなど細部にまで神経が行き届いている。
煙管と煙草入れをかたわらに置いて座す吉原の遊女の背後から、禿が袖の中に手を差し入れている。遊女のかゆい背中を禿が掻いてやっているところと見えるが、肉筆画にも錦絵にもあまり例を見ない微笑ましい情景である。
画面左下と右下の墨書から、明治画壇の巨匠・河鍋暁斎が所蔵し、作者に関する考証を行ったり、画業学習の糧にしたとみられ、絵画史的にも注目すべき作品といえる。
吉原のメインストリートである仲之町の満開の桜の下を、二人の禿を伴い道中する遊女が描かれている。色違いながらも同じ菊花で統一された遊女と禿の着衣模様の軽快な筆致や、淡彩をいかした薔薇の木の描写などに、豊広の的確な技量が認められる。
本図は寛政前期頃の彼の美人画の典型を示すもので、豊かな体躯、ややふっくらした顔の形など、師・豊春の画風をもとにしつつも、頭部に比べ身体の大きさが際立つのが特徴。
浅(朝)妻舟とは、琵琶湖畔の朝妻(現在の米原市朝妻筑摩)と大津の間を航行した渡し舟であるが、都落ちした平家の女房たちが遊女に身をやつし、船上などで旅客の相手をしたという。柳下の小舟に乗る白拍子が描かれている。
作品には「ひと夜かふねに あふみちの あさつまやめは ふかくならぬひとのちに ふの名たふれや なれにしとこの山嵐に ねみたれ髪の 柳かけ つなかぬふねの うきてよに つひのよるへは いさや かはいさ しらすちも こゑそへて うつやつゝみの うつゝたふや」と藍亭青藍の画賛がある。
江戸に桜の名所は数々あるが、新吉原仲之町の桜も多くの絵師によって好んで描かれた。日本堤より五十軒道を下ると吉原の大門に至る。門の先に150間(273 m)に渡って真っ直ぐ伸びる道が仲之町である。正月の門松、3月の桜、4月下旬の菖蒲に7月の草市など、四季の景物や催しで人々を惹きつけた。
画面上部には「中之町の山口巴屋か楼にて夜櫻見たりし時 わけ登る 花のよし野 もよし原も 山口よりそ 咲はしめける」と式亭三馬の賛がある。
江戸においては吉原のみが幕府より認められた公許の遊郭であった。そこには下は「切見世」から最上位の「散茶」「部屋持」「呼出し」まで多くの遊女が存在したが、女性たちの憧れはやはり、禿や新造を従えて道中をする最高位の遊女であったことだろう。
しかし、上位を目指すには歌舞音曲から和歌、茶道、花道、書道など高い教養が求められた。7~8歳から禿として、最高位の花魁の元で身の回りの世話をしながら諸芸や廓の掟を学び、振袖新造を経て花魁となるが、最高位まで上り詰めることができるのはほんの一握りで、多くは年季明けまで生存することすら難しかったといわれる。
床入りの前、御簾紙を手に行燈の明かりを落とそうとしている遊女を描いている。行燈も形状や用途により種類はわかれるが、図は「丸行燈」とよばれたもので、光源には蝋燭や油が用いられた。
和蝋燭は当時とても高価で、灯油にしても一般では菜種油はなかなか用いることができず、庶民が利用したのはイワシなど安価な魚を絞った魚油であった。内部中央の火皿に油を注ぎ、木綿などを撚った灯心に点火して使用する式である。魚油は安価ではあったが、燃やすと煙と煤が出て臭いも激しかった。また、行燈の明るさは今日の豆電球ほどであったという。
闇の中に浮かび上がるかの如く、大樹のような台座に座した日蓮大聖人の読経姿が描かれ、画面右上に朱筆で「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」、中央下に「安立山日※よう(花押)」と記されている。
安立山とは浅草にある長遠寺のこと。江戸三大祖師の「土富店のお祖師さま」として知られる名刹で、日蓮上人自刻の祖師像が奉安されている。寺伝によれば、1806(文化3)年と1830(天保元)年の火事で焼失した堂宇を再建したのが、この寺の僧・日※よう上人だという。
北斎が信仰した北辰妙見と日蓮宗との関係は深く、おそらく北斎自身が長遠寺の日蓮像を見てこの絵を構想したと考えられる。長遠寺にはかつて北斎筆の「日蓮上人小松原御難の図」の絵額もあったともいわれ、北斎と長遠寺、あるいは日※よう上人との交流がうかがえる。
落款は「葛飾北斎戴斗拝画(花押)」とある。
※ようの漢字は2点しんにょうに羊
収蔵作品は作品保護のため通年展示されているわけではございません。