こちらのページでは収蔵作品の中から「西洋絵画」の作品をご紹介いたします。
牧師の子として生まれたゴッホは、画商の店員、イギリスの学校教師、ベルギー ボリナージュ炭坑の伝道師を経て、1880年に画家を志した。1884年、31歳の彼はオランダ ヌエネンの両親の元に身を寄せ、農夫の絵を描くようになる。そして父が亡くなった1885年の暮れにオランダを離れてからは、2度と故郷に戻ることはなかった。
この絵はゴッホのオランダ時代の作品であり、独学でドラクロワの色彩理論を学び、ミレーを模写した影響が顕著に表われている。
1883年4月末、モネはパリから60㎞程離れたジヴェルニーに移り住んだ。1890年になるとそれまで借りていた土地と家を買い取り、すぐ近くを流れるリュ川から水をひいて念願の「水の庭園」を造成する。そして、そこに植えられた睡蓮の成長を待っていたかのように、1903年から頻繁に睡蓮を描くようになるのである。
パリから14kmほどのところにあるヴィル・ダブレーは、コローの一家が家族団らんの時を過ごした町である。コローは美しく自然に満ちたこの町の風景を数多く描いている。両親の亡き後も、コローは父親が購入した別荘を終生守り続けたという。
コローは本格的に絵の勉強を始めて3年後にイタリアを旅行した。これを含め、生涯に3度イタリアを旅行している。イタリアでは美術館や巨匠達の絵よりもむしろ、地中海の明るい陽光の風景から多くを学び、それをそのまま光と色で表現した。
コローが生まれ育ったフランスの気候は年間を通して曇りがちで、輝く太陽はあまり見られない。彼は霧に包まれたような北フランスの風景を幻想的に描いて好評を博し、富と名声を得ることとなった。
コローの時代、風景はあくまでも歴史画の背景でしかなく、人物の描かれていない風景画は価値の低いものだった。コローが自然を再構成して完成させた絵には、ほとんどといっていいほど人物が描き添えられているが、それらの人物は主役ではなく風景の一部にすぎない。
モデルはルノワール夫人の従妹ガブリエル・ルナール。彼女はルノアールの次男ジャンの誕生の時に手伝いとして雇われ、育児・家事、リューマチに苦しむ画家の療養介助、そして裸婦モデルまでも務めて貢献した。バラ色の肌と黒い髪をもつガブリエルがモデルになった絵は200点ほどもあるという。彼女はジャンの成人を見届けて家を去るが、夫人が亡くなるとすぐに戻り、病で屈曲した手に絵筆を縛り付けて描く画家の晩年を支えた。
なおジャン・ルノワールは、後にフランス映画界の父といわれる程の映画監督になる。ガブリエルはジャンがハリウッドへ進出するのに一役買ったとも言われる。
1869年夏、ルノワールとモネがセーヌ河畔のレストラン「ラ・グルヌイエール」でイーゼルを並べて描いた何点かの絵は、印象派絵画の最初のものと言われている。そして’71年にモネがパリから10kmほど離れたアルジャントウイユに移住すると、ルノワール、シスレー、マネ、カイユボットらが訪れて、この地やその周辺で作画に励み、それら一連の作品群が印象派の典型的な作品となる。
その頃の作品と思われるこの絵は、ルノワールには極めて珍しい、人物の描かれていない純粋な風景画である。
英仏海峡に面したノルマンディーには美しい海岸がいくつもある。中でもエトルタは高さ100メートルにも及ぶ壮大な断崖があり、古くから天下の絶景として知られてきた。1869年、エトルタに滞在中のクールベは集中して20点あまり『波』の絵を描いている。
力強いエトルタの波がクールベの心を魅きつけたのはいうまでもないが、北斎の『神奈川沖波裏』からも影響を受けたと言われている。また、その後エトルタには印象派の画家たちが好んで訪れるようになった。
フランスの画家 ジャン=マルク・ナティエは、1718年に歴史画家としてアカデミーに入った。ルイ15世時代に王妃や皇太子、ポンパドール婦人などの肖像画家として活躍した。上流階級の女性達をギリシア・ローマ神話の女神として扱った歴史的肖像画で知られ、モデルの特徴をハッキリと描くことはなく、繊細優美で伸びやかな作風を貫いた。この絵もその典型的作品である。
エル・グレコは1577年(37歳の時)、トレドの大聖堂からの発注で『聖衣剥奪』を描き高い評価を受けた。新約聖書に記されている、十字架にかけられる直前のキリストが衣服を剥がされる場面を主題にしたその絵は、現在も大聖堂の聖具室に掛けられている。
この作品はそれと同タイトルの作品バージョンの一つで、グレコ工房の作といわれている。
ベルギーの風俗・肖像画家 カレル・ヴァン・ベルは、女性の肖像画を多く手がけた。作品がゲントの美術館に収蔵されているという。花束を持つ女性のプロフィールが、優しく柔らかなタッチで描かれている。
イギリスの画家 トーマス・ロスは、イギリスが人物画や風景画の黄金時代を迎えた19世紀初頭に、ロンドンでその技法を学んだ。人物画の評価が高く、ミニアチュールの肖像画で当時一世を風靡した。制作数が少なく、残っているものは秀逸な作品が多い。イギリスのバース美術館に作品が所蔵されているという。
娘が着ている光沢のある白いシルクドレスは、ウエストが閉まったAラインのシルエットで、極端に大きなオーガンジーのパフスリーブがついている。ヴィクトリア朝のヴィンテージファッションであろう。
収蔵作品は作品保護のため通年展示されているわけではございません。